うつ病日記

うつ病で2018年秋から休職中

2019年8月11日日曜日

就寝時刻:27時

起床時刻:15時半

気分:40点(100点満点)

 

朝だるくて起きられなかった。昼間、すごく気持ち悪くなる。マッサージの揉み返しなどもあったのか。とりあえず頭痛と吐き気と悪夢で起きられない感じ。起きて17時頃食事をとる。

 

青年海外協力隊について調べ、体験談みたいなのを読む。名前だけ聞いて少し憧れる。語学力を活かせそうだし、誰かの役に立てるのは良いことではないかと。水道や電力が安定しなかったり、各国の主要都市から3、4時間も移動が必要になる僻地に住むのは大変そうだけれど。

しかし、まず研修がかったるそうだ。意識の高い人たちが集まって、お互いに自主講座とかするらしい。二日間の自炊で共同生活みたいなものもあるらしい。何かそういうのはしんどそうだなと思う。とはいえ、一時のことだし、それぐらいは耐えられる。

それより、行ってから結局大変そうだ。

第一に、現地の人と関係を築くのが大変だという。個人的に気が合わなさそうな人とも仕事上は関係を築かなければいけない、郷に入っては郷に従えというのが僕は嫌なのであった。結局仕事は人間関係だ、というのはしんどい。

第二に、虚無感や無力感というのは消えそうにない。自分は誰かの役に立てているのだろうか、仕事できているのだろうかと不安になるようだ(どうも1年くらいで底をついてもう1年で達成感に変わってくるらしい、というのはブログに書いてあったけれど)。そして自分が仕事に貢献できているとしても、その仕事自体が誰かのために・世の中のためになっていると信じるのもまた大変そうだ。いま悩んでいる「この仕事に意味があるのだろうか(いや、ない)」という感情は、青年海外協力隊という仕事でも別に癒やされなさそうだ。そして、多分職業を変えたところでどうにかなるものでもなさそうだ。

ということで、「そこまで気が進まない」という結論が出る。それに、いまの職務経験を活かして参加できる仕事もなさそうだし……。

 

幸福は、持続的な人間関係やコミュニティへの帰属、長期的なコミットメントによってもたらされるのであり、刹那的な快楽は幸福に対してあまり貢献度が高くない、しかしネットではしばしば短期的な快楽(飲食や作品鑑賞の喜び)ばかり取り上げられている、という指摘を読んだ。なるほど、と思う。

なぜネットのコンテンツで刹那的な快楽ばかり取り上げられるかというと、長期的なコミットメントの喜びは短い尺で描けないからだと思う。読者のアテンションが限られているから、読者が読める尺に合わせて刺激を提供する。そうすると、紹介されるものも持続的な喜びよりも、刹那的な快楽にならざるをえない。そうして世の中に流通するコンテンツがそれ自体刹那的な快楽か、刹那的な快楽についてのものになり、それに馴らされた消費者はますます刹那的な快楽を追求するようになる……。おそらく目に入っていないだけで「丁寧な暮らし」的なコンテンツもたくさんあるのだろうとは思うけれど。

対抗するためには、自分自身を変えていかなければいけない。まずは刹那的な快楽(について)のコンテンツばかり摂取しないよう気をつけよう、コンテンツを消費する際もできるだけ持続的なコミットメントについてのものを、時間を取って集中して読もう。そうやって自分の欲望を鍛えていこう。

 

全部快楽は刹那的で、多少の余韻こそあれど過ぎ去ってしまうものだと思う。きれいな色の空だって美味しい食事だって質の良い温泉だって誰かとの楽しい夕食だって、すぐにそのビビッドな質感を忘れてしまう。そういうことがあったなあという思い出は、いつまでも振り返ることができるけれど、人生の意味を支えるには微弱だ。全ての快楽は流れ去る、流れ去るから空虚になった志向性をまた新しい快楽で埋め続けなければいけない。快楽を浴びているその瞬間だけは空虚感を感じなくて済むから。しかし、そうやって空虚感を埋め続けなければいけない人生、空虚感を埋め続ける過程に、いったい何の意味があるのだろうか。俯瞰すると、より大きな空虚感が出てくる。

そして、空虚感は自分が何か行動したり努力したり苦労したりすると、増す。だから、あくせく働いてそれが何も報われないのと、何もしないから何も報われないのでは、前者の方がしんどく思われる。どうせ報われないのなら何もしない方がましだ、そんな風に考えていて、動けないに違いない。

 

フリーランスのプロブロガーなり翻訳家に挑戦すると考えてみる。

人間関係に煩わされない代わりに金銭的な不安は増すだろう。

元々、会社での仕事を通じて人間関係が広がることはなかったが、フリーランスでは一層人間関係が広がらないだろうし、「合わない人が大半だったにせよ人と知り合う可能性はあった、あれを有効活用するという道もあったかもしれないのに」と手放したものを懐かしんでしまうかもしれない。

別に会社でも自分が能力を発揮して評価されている感覚はなかったが、もっとダイレクトに自分が評価されない事実を突きつけられ、「少なくとも金銭的には報われている方がよかったなあ」と感じたり、今のところはあまり意味がないと思っている細々としたねぎらいや評価の言動を思い出して「本当はそれなりに評価されていたのにそれを無視していたのは自分だったんだなあ」などと懐かしがって後悔したりしそうだ。

要するに、環境が変わったら変わったで、過去の良いところを見つけて後悔し、現在の悪いところばかり見つめてしまう、などしても、おかしくはない。そして、そのせいで空虚に感じているのではないか。だからどうすればいいか、というのはあまり分からないのだけれど。心の持ち方を変えなければいけない、というのはそうだとしても、現状維持でいいのか、現状を変えるべきなのか、というのは分からないので。