うつ病日記

うつ病で2018年秋から休職中

2019年10月15日火曜日

就寝時刻:28時

起床時刻:14時半

気分:40点(100点満点)

 

また日記をサボってしまった。すっかり癖になってしまった。

今日は朝8時過ぎに、会社からの用事のLINEで目が覚める。それだけ10時台に対応して、また寝てしまう。起きたら14時半、もうランチがあんまりやっていないので台湾まぜそばを食べる。すっかり下痢する。20分くらい歩いてからカフェに入って考え事。Twitter見ながらだらだらやっていたらあっという間に4時間くらい居座ってしまった。

今日はいつもと逆に会社に戻るべきという結論が出た。しかし、また20分ちょっと歩いて帰っている途中に結論が逆転してしまった。どちらかに腹が決まると同じ理屈で反対側に転ぶ。要するに決めがたい。

というか、どちらも怖いのだ。「復職が前提で」などと言われてしまうと、退職なんていうのは大それたとんでもない行いだという気がしてしまう。しかし、そういうルールを善意で提示してくる人間も、復職を遠回しに考え直すよう言ってくる人たちも、誰も責任をとってくれないのだ。反対もそうで、「いいぞいいぞ」という人も「無理しなくていいよ」という人も責任はとってくれない。何なら「自分を大切にしろ」という人ですらそうである。そして自分で決めなきゃいけないとなるが、どの選択肢も誰かが提案するものであるからには、誰かの言うことを聞くことになってしまう。つまるところ、自分で責任を取るのは、誰かのアドバイスを聞きつつ、自分の行動を誰かのせいにしないということだ。完全なオリジナルなんてない。

そして実は、今までそういうことはそこそこやってきたのだ。受験だって学校行事だって全部強いられたものだけれど、自分なりに楽しむことでそれなりに乗り越えてきたのだと思う。挫折ばかりが人生ではない。嫌なことがあって、被害者意識を持ちそうなときも、いかにやりたいと思ってやるか。自分は既に自由なのだと考えてみる。頼まれたことに対して、「嫌だからやりません」と言って頑なに断る自由もあるし、不満な態度を小出しにすることもできるし、快諾することもできる。帰結を考えてどれを自分は選ぶか。そこで望む選択をすればよい。そうすれば自由であり続けられる、たとえ会社にいて不本意な仕事を受け取ったのだとしても。

自覚的にそうした能力、一見やりたくないことを引き受け直せる能力を育てられれば、誰かと一緒にいることが苦じゃなくなってくるだろう。もし将来家庭を築きたいなどと思うならば、能力を鍛えることを善とみなすと良いだろう。その場をやり過ごす以上のことを考えれば、鍛えられた自分の方を望むのではないか。

今思ったけど、疲れそう。「疲れたくない」が根本にあるのかも。「疲れたくない」「その場を楽したい」そういうのの積み重ねかも。だとすると、必要なのは、将来への確固たる見通し?