うつ病日記

うつ病で2018年秋から休職中

2019年10月17日木曜日

就寝時刻:28時

起床時刻:14時半

気分:40点(100点満点)

 

ああ、やってしまったと思った。ずいぶん遅く起きてしまった。前夜はダラダラとツイッターを見たり鈴木涼美氏の文章を読んだりしていた。面白かったが時間の無駄だった。俺ならそんな馬鹿なこと言わないのにと優越感に浸れる。しかし何より嬉しいのは、セクシーで知的な彼女がそれだけ男についてうだうだ書くぐらい男が好きでいてくれることなのだ。愛である。

 

結局16時頃発の電車に乗って家を出る。小田急線は半分ぐらい立っている。湯河原についてから、バスを乗り間違えた。メールに書いてあったバス乗り場が間違っていたわけだが、行き先を確認しなかった自分が悪い。そんなに遠くに行かないバスで良かった。

宿について、本日1食目。電車の中ではあまり調子が良くなくて鼻水はめっちゃ出るし節々は痛いしどうかなと思っていたが、いざ食べてから空腹に気付く。お味噌汁の出汁も効いていたし、とんかつの温度がちょうどよく肉もおいしく、米もサラダもおいしく、非の打ち所がなかった。

夕飯食べ終わったらyogiboに寝転がって読書。広々とスペースでときどき体勢を変えながらゴロゴロするのがたまらない。温泉。泉質の表示がなかったり、温泉内で水が飲めないところ、涼しく座って休めるところがないところはちょっと物足りなかったが、熱くてしっとりとしたいい湯だった。たぶん朝に入りたい。あと露天風呂がほしい。湯上りもまたゴロゴロ。共用スペースに水汲み場があるのがよい。

 

本を読んでいる。労働の過酷さに思いを馳せる。人手不足になり労働環境が一気に良くなったと言う。人手不足は素晴らしいことだ。

読者の想像の共同体というのが非常にロマンチックに描かれる。もちろん記述としてはフェアだ。それだけ共同体を必要とする過酷な労働環境であるとか、アンチ立身出世のための学問であることから階層固定の効果を持ってしまったとか、そういう負の側面にも目が行き届いているので。それにしても真率な気持ちを吐露し合う教養主義的共同体の素晴らしさよ。最近の生活でイメージする公共圏はツイッターの最悪言論空間なわけだけど、何とか工夫して質の良い想像の共同体をつくれればそれは素晴らしいことなんじゃないかと夢を馳せてしまう。

そして消費社会と政治の季節の到来による退潮と、健康への焦点の移動。ふーむ。

 

自分は自分に甘すぎるのではないかと思った。それで一貫している。自分を甘やかす代わりに何も手に入らない場面と、自分にプレッシャーをかけることで何かを目指す場面で、一貫して前者を選んできた。自分を甘やかして誰かが離れるなら、離れていけばいいというスタンスをとってきた。そろそろ改めてみたら? と思わなくもない。

自分で自分なりに重荷を課すことはあるのだ。でもそれは相手の要求に応じることとは違う。先回りして自己規制だけする。そのやり方が根本的に自己中心的なのだが、そうやって自己を検閲し律してきた側面もありはする。他人に要求されて応えるという過程が怖いのでそれはすっとばしてきた。ルールをセットできるのは自分だけ、って感じ。

 

仕事について考える。終わりがない。何かを達成したら次の何かが出てくる。それをどう思う?  コントロールできないことだ。それを諦めてコントロールできることに注力しなくちゃいけない。じゃあ何に?

思うに、どんな仕事をしても、延々とやり続けなければいけないことは変わらない。その宿命に対して抗うために、まず仕事内容は転職によってコントロールできる。少なくとも、転職してみるという賭けに出ることはできる。

第二に、初めの一度だけでなくまた転職できる自由を持てれば好ましい。つまり、度重なる転職が履歴書に書いてあっても敬遠されることのない職務経験・実力とでもいうべきものが存在すればいい。

ただ、そんなに簡単に転職できるのだろうか、し続けられるのだろうかという問い。まだ初めの1回もしてないじゃないか。実は難しいんじゃないの? と。

ともあれ転職を重ねることで「苦痛を避ける」という目的は達成できる。それで生きていけるなら万々歳だ。

 

反対に、公正と勇敢の徳を重んじて今の会社に残るという選択もある。契約の内訳に含まれていたわけだから法的には何も悪くない、しかし人の道でいえば休職で迷惑をかけたといえる。お金をかけてもらった分を返すのが「つとめ」だ。それには意味がある。人生の意味に悩む必要はなくなるーーつとめだとして、そのことに何の意味が、となってしまうかもしれないが。迷惑をかけたら埋め合わせる、そうすると気持ち良くならないか?

そして、次は親に返そう、社会に返そう、と進む方向が明確にならないだろうか?